黒田官兵衛ゆかりの地、福岡県-1

黒田官兵衛ゆかりの地、福岡県

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。三人の天下人に愛され、恐れられた男、官兵衛。

その類いまれな知略と先見性で戦国の世を駆け抜けた知将・黒田官兵衛孝高(如水)は、戦乱の世にあって「戦わずして勝つ」を実行した、奇跡の名将といえるかもしれません。


福岡藩の藩祖 黒田官兵衛

播州の御着城主・小寺家の家老として家督を相続した陪臣に過ぎない官兵衛が、一躍歴史の表舞台に登場したのは、織田信長に拝謁した三十才の頃。確かな知識と情報収集力で、いちはやく信長支持を表明し、天下布武の突破口を開いた八面六臂の活躍は、彗星のような輝きを放っています。本能寺の変で信長が斃(たお)れた後も、秀吉の天下取りを支え導きました。

天下取りを支えた最強の軍師という一面だけでなく、戦国の時代において、側室を持たず一人の女性を愛した愛妻家であり、歌や茶会を愛する文化人であり、キリシタン大名であるなど、豊かな人間愛が終始貫かれています。敵将や将兵までもが自ら進んで官兵衛の軍門に降りるのも、官兵衛の将としての器の大きさを物語っているのではないでしょうか。

官兵衛の軌跡をたどると、大きな歴史ロマンが見え隠れします。そんな官兵衛の総決算にして集大成が「九州・福岡」です。藩祖官兵衛の息遣いが、いまでも残る福岡をご紹介します。


年表

1546年(0歳) 播磨姫路で誕生
1567年(22歳) 家督を相続する
1568年(23歳) 松寿丸(黒田長政)をもうける
1569年(24歳) 青山・土器山の戦いで十倍差ともいわれる兵力差の大群に勝利し、名を轟かせる。
1575年(30歳) 織田信長と謁見、「へし切長谷部(福岡市博物館蔵)」を与えられる。秀吉に仕える。
1578年(33歳) 主君信長への謀反の噂のある荒木村重の説得に単身乗り込むが捕縛され、約1年間幽閉される。
1581年(36歳) 兵糧攻めで鳥取城を攻略
1582年(37歳) 高松城攻めで水攻めを提案など、軍師として活躍。高松城攻略の際、本能寺の変を聞き、中国大返しで殿軍を任される。
1583年(38歳) キリスト教の洗礼を受け、洗礼名をドン・シメオンとする。
1586年(41歳) 九州平定のため、豊前国へ入国。
1587年(42歳) 秀吉から、豊前六郷を与えられ、馬ヶ岳(行橋市、みやこ町)に入る。太閤町割にて、博多の町の区画整備に関わる。
1588年(43歳) 中津城(大分県中津市)へ移る。
1589年(44歳) 家督を長政に譲る。
1590年(45歳) 小田原城征伐に参加、講和による使者として活躍。
1591年(46歳) 秀吉の命により、名護屋城(佐賀県唐津市)の縄張を行う。
1593年(48歳) 名を如水と改名する。
1600年(55歳) 石垣原(大分県別府市)の戦いで勝利。小倉城を攻略し、久留米城、柳河城を開城。(関ヶ原の戦い:子の長政に筑前52万石が与えられる。)
1601年(56歳) 福崎(福岡市)の地を福岡と改称し、福岡城の築城を始める。完成までは、太宰府天満宮(太宰府市)の庵で隠居生活を送る。
1604年(59歳) 死去。崇福寺(福岡市)に葬られる。


黒田官兵衛と福岡県

豊臣秀吉の九州平定の軍艦、黒田官兵衛(如水)

黒田官兵衛は豊臣秀吉の九州平定の軍監として、天正14年(1586年)、兵4,000を率いて海を渡り、毛利・吉川・小早川軍とともに豊前小倉城(現・北九州市小倉北区)を攻め込みました。これが官兵衛にとって福岡での出発点でした。

豊前小倉城攻略後、豊前松山城(現・京都郡苅田町)では、豊前の諸将が降伏し、天正14年12月ごろには主な豊前の城を攻略しました。島津義久の降伏により秀吉の九州平定が一段落した天正15年6月、秀吉は荒廃した博多(現・福岡市)の町に立ち寄り、博多の復興を思い立ちます。世に有名な「太閤町割」という復興プランの策定を秀吉が命じた相手が、官兵衛でした。官兵衛は部下の久野四兵衛に指示し、その年の年末には復興プランが出来上がったといわれています。

秀吉は九州平定の論功行賞を筑前博多の筥崎(現・福岡市東区)に滞在した折に行います。このとき官兵衛に「豊前国(福岡県の北東エリアと大分県の北部)の3分の2」が与えられることになりました。7月に豊前小倉城に移った秀吉は、詳細を決定し、官兵衛に対して豊前6郡を与える知行宛行状を出します。

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小倉城-1

小倉城

天正14年(1586)、秀吉の九州平定に参加した官兵衛は、毛利・吉川・小早川軍とともに豊前小倉城を攻めた。翌15年(1587)、九州を平定した秀吉は、大坂への帰路小倉城に立ち寄り、それから赤間が関に渡った。赤間が関で官兵衛に対して、豊前6郡を与える知行宛行状を出した。また、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際に西軍・石田三成方に属した小倉城主毛利勝信を黒田官兵衛が攻め落城させたといわれる。

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黒田官兵衛(如水)・長政と宇都宮一族との攻防のドラマ

官兵衛は直に馬ヶ岳城(現・行橋市)に入城し、秀吉の命により新しい所領の検地を行います。秀吉の九州仕置(九州内の領地配分)により、豊前城井城(現・築上郡築上町)の城主・宇都宮鎮房は、秀吉の九州平定に協力したにも関らず400年近く治めていた父祖伝来の地から伊予への転封を命じられます。この措置に不満を持つ宇都宮鎮房は、父祖伝来の地・城井谷を官兵衛から奪還し、官兵衛・長政と宇都宮一族との攻防のドラマが繰り広げられます。

天正16年(1588年)、宇都宮鎮房は降伏し、領内の一揆は沈静化します。同年、中津城完成とともに官兵衛・長政は中津城に移りますが、翌年、長政はそこで宇都宮鎮房を謀殺し、城井谷の宇都宮一族も長政が派遣した軍勢により攻め滅ぼされます。その後、官兵衛は長政に家督を譲り、「如水軒」と名乗りますが、秀吉の軍師としての役割は続きました。秀吉の天下統一総仕上げとなる小田原攻めや朝鮮出兵でも軍師として派遣され、小田原城の開城や朝鮮出兵の基地となる名護屋城の縄張りで活躍します。

  • 松山城跡

    松山城跡

    周防灘に半島状に突き出た山城であった松山城。天正14年(1586)、小倉城を落とした黒田官兵衛と毛利勢は松山城に陣取り、宇留津城などを攻めた。また、慶長5年(1600)の石垣原の戦いの際には、黒田二十四騎のひとり衣笠景延が松山城を守ったといわれる。

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  • 馬ヶ岳城跡

    馬ヶ岳城跡

    豊臣秀吉から豊前6郡を与えられた黒田官兵衛は、九州最初の居城となる馬ヶ岳城に天正15年(1587)7月に入城。秀吉も九州平定のため九州入りした天正15年3月にこの城に滞在したとの記録がある。神馬の姿に似ていることから馬ヶ岳といわれている。

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  • 城井ノ上城址

    城井ノ上城址

    官兵衛の最大の宿敵ともいえる宇都宮鎮房の山城。天然の要害を利用した山城で、表門は人ひとりがやっと通ることができるほど狭い。

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秀吉亡き後の「関ヶ原合戦」における功績

慶長5年(1600年)、秀吉亡き後の主導権をめぐって徳川家康と石田三成の間で天下分け目の関ヶ原合戦が開かれます。この戦乱が長引くと考えた如水は、天下取りの最後の賭けに出ます。

子・長政は手勢を率いて家康側の東軍に参加したため、中津城で留守を守る如水のもとにはほとんど兵はいませんでした。そこで、如水は今まで蓄財した金員を叩いて浪人9,000人を集め、九州内で西軍側についた大名を次々に攻略し、自己の所領拡大を図ります。九州の関ヶ原といわれるこれらの戦いでは、大友義統軍を破った石垣原の戦い(大分県別府市)が有名ですが、福岡県内でも毛利定房が守る香春岳城(現・田川郡香春町)、毛利吉成の小倉城(現・北九州市小倉北区)、毛利秀包の久留米城(現・久留米市)、立花宗茂の柳河城(現・柳川市)など次々に西軍側大名の城を開城させます。とりわけ東軍側の武将・加藤清正との水田会談(会談場所は現在の筑後市にある坂東寺といわれている)を通じて、立花宗茂を説得し、籠城戦を回避させたのは如水の知恵、加藤清正と立花宗茂との朝鮮出兵時の厚い絆が背景にあり、一つのドラマといえるでしょう。

ところが、如水の予想に反し、関ヶ原の決戦は子・長政の西軍側への攻略が功を奏し、1日で終わります。如水譲りの軍師としての才覚が長政にも備わっていたことが、皮肉にも如水の命運を左右することになりました。

如水は、関ヶ原の決戦により態勢が決まった後は天下取りの野望をあっさり捨て、関ヶ原の論功行賞として長政が得た筑前52万石の地に移ります。如水・長政はいったん小早川隆景が築城した名島城(現・福岡市東区)に入りますが、九州第一の商業都市・博多を取り込んだ城下町の形成を通じて、筑前国の発展を考えました。まず、新しい城の地を福崎(現・福岡市中央区)に決め、黒田家発展の地・備前福岡村にちなんで福岡と改称します。ここに現在の「福岡」という地名の由来があります。

福岡城の居館が完成するまで太宰府天満宮内(現・太宰府市)に庵を設け、築城のための良材を求めて三郡山(現・飯塚市)に行き、たびたび西光寺(現・飯塚市馬敷)に宿泊したといわれています。

  • 福岡城跡

    福岡城跡

    福岡藩祖・官兵衛と初代福岡藩主・長政が慶長6年(1601)から7年がかりで築城。平山城で、大中小の各天守閣と47の櫓があった。現在は多聞櫓(重要文化財)、(伝)潮見櫓、下之橋御門、祈念櫓、母里太兵衛邸長屋門、名島門などが保存され、大天守台は展望台になっている。

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  • 香春岳

    香春岳

    神の山として信仰が厚かった香春岳。石灰岩でできており、激しい傾斜などの地理的特性から次第に軍事拠点として利用されるようになる。天慶(940)三年に藤原純友が築き(豊前志)、交通の要衝ともなっていたこの地では数々の戦が行われた。豊臣秀吉の九州平定により香春岳城は落城。その際に、黒田氏・小早川氏が活躍したとされている。現在、石灰石の採掘により城跡は不明。

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福岡における文化人としての黒田官兵衛(如水)

さて、武人、軍師としての官兵衛(如水)の歴史は、このように知略に満ちたものでしたが、文化人としての官兵衛(如水)の姿も福岡には残っています。中津藩主時代には、たびたび求菩提山(現・豊前市、築上郡築上町)で桜狩(いわゆる桜の花見)を行ったといわれています。桜狩を日本で広めたのは豊臣秀吉といわれていますが、秀吉の側近であった官兵衛は、一説には九州で初の桜狩を行ったともいわれており、その場所が求菩提山でした。今でも桜狩をした場所には芭蕉塚(現・築上郡築上町)という石碑が残っており、求菩提山の桜狩のときに従者と詠んだ句は、現在求菩提資料館(現・豊前市)に残っています。

また、朝鮮出兵に際して、如水・長政は朝鮮の八山(高取八蔵重貞)という良工を見出し、日本に連れて帰りました。関ヶ原の後に筑前国へ転封された際には鷹取城(現・直方市)のふもと宅間(現・直方市大字永満寺)にこの陶工の窯を開かせました。これが高取焼の起源で、その後、窯は内ヶ磯(現・直方市大字頓野)、山田(現・嘉麻市)、白旗山(現・飯塚市)、小石原(現・朝倉郡東峰村)へと移り、現在の小石原焼にも影響を与えているといわれています。

秀吉の影響で茶をたしなむようになった如水の軌跡も福岡には残っています。福岡城内の館ができるまで仮住まいしていた太宰府天満宮の境内には、茶の湯で使っていた井戸「如水の井戸」がその名残といえるでしょう。

福岡城内三の丸に「御鷹屋敷」が完成すると、妻幸円とともに静かに余生を送りました。
そして、慶長9年(1604年)、如水は京都の伏見にある藩邸で息を引き取ります。長政は、黒田家の菩提寺・崇福寺(現・福岡市博多区)に如水の墓所を築き、現在では歴代藩主とともに祀られています。

  • 求菩提資料館

    求菩提資料館

    官兵衛が求菩提山(くぼてさん)で桜狩(さくらがり:桜の花見のこと)を楽しんだといわれており、黒田官兵衛と従者が詠んだ短冊が13首残っている。桜の花見は秀吉が日本で広めたといわれているが、官兵衛の花見が、九州最古の桜の花見ではないかと言われている。花見の史料として九州最古であることは間違いないといえる。また、秀吉からの禁制札が史料にあり取次ぎ者として官兵衛の署名・花押が記されている史料が展示されている。

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  • 芭蕉塚

    芭蕉塚

    官兵衛主従が求菩提座主の豪貴法印と桜狩を楽しんだ山桜の名所が芭蕉塚であり、桜狩の歌もここで詠んだと思われる。九州で初めての桜の「花見」が行われたと考えられている。また、ここでの官兵衛の歌の中で「山ふかく分け入る花のかつ散りて春の名残もけふの夕暮」と詠んでいる。宇都宮氏を謀殺したことに対する後悔を示し一生悔いていた。また、謀殺に対する後悔の念やむなしさを現している。

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黒田官兵衛(如水)没後と福岡

如水の死後、長政はその意を受け、諸領内の長崎街道の整備を行い、筑前六宿という宿場町の形成を促すとともに、戦乱時に城下町・福岡が荒らされないように対策をとりました。また、黒田家の精鋭家臣「黒田二十四騎」の栗山備後利安、後藤又兵衛基次、母里太兵衛友信、井上周防之房などを隣国との国境を守る六つの端城(麻氐良城、益富城、鷹取城、黒崎城、若松城、松尾城を指し、筑前六端城といわれる)に派遣し、筑前国の安泰を図りました。

官兵衛、黒田家にまつわる資料は現在、福岡市博物館に所蔵されています。ぜひこの機会に一つでも多くの「官兵衛ゆかりの地・福岡」をご覧ください。「福岡を創った男 黒田官兵衛」の姿がきっと見えてくることでしょう。

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福岡市博物館-1

写真提供:福岡市

福岡市博物館

黒田家ゆかりの品の所蔵数は国内有数で、官兵衛が織田信長から褒美として与えられた名刀「へし切長谷部」(国宝)、小田原攻めの際に官兵衛が北条氏から贈られた名刀「日光一文字」(国宝)などを有する。配下の母里太兵衛友信をモデルにした黒田節で有名な大身槍「日本号」や国宝「金印」などは常時展示されており、見応えのある展示となっている。

福岡市博物館公式サイト

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