福岡県知事指定 特産民工芸品 ー県指定ー-1

福岡県知事指定 特産民工芸品 ー県指定ー

福岡県で製造される郷土色が豊かで、技術・技法が五十年以上の歴史があり、今日まで継続している工芸品・民芸品に与えられます。現在、35品目が指定されています。


孫次凧(まごじだこ)

地域の伝承を遊び心とともに

明治末期、戸畑に生まれた「孫次凧」は、竹内孫次氏が作り始めたことにその名を由来します。
北九州は海に近く風が強いため、凧あげが盛んな地域で、凧つくりの名人たちが、地域を代表するもの(門司のふぐ、若松のかっぱなど)、孫次凧と同様に製作者の名前を冠したものなど、それぞれの凝った題材や形状で腕を競っていました。
孫次凧の主題となっているセミは、「つくつくぼうし」だといわれます。


小倉織(こくらおり)

江戸時代から愛された木綿織物

「小倉織」は、地厚で丈夫、なめらかな木綿の織物です。
先染めした糸を用いて、経糸が緯糸より密になるように織ることで表現される縞模様は、凛として潔く、色の濃淡による立体的な世界を創りだします。
江戸初期から袴や帯、羽織として用いられ、徳川家康が鷹狩の際の羽織として愛用したという記録も残る小倉織は、昭和初期に一度途絶えましたが、同59年、復元・再生しました。現在は、国内外で好評を博し、次世代の作り手も育っています。


八朔の馬(はっさくのうま)

次世代の健勝を願う、素朴な贈り物

「八朔の馬」とは、男の子の「八朔(旧暦8月1日)の初節句に、祝いとして近隣住民に配るものです。300年の歴史を持つこの祝いの行事は現在も新暦9月2日の早朝に行われています。馬の背中には黒田長政などの名武将を乗せ、「元気で勇壮に育つように」と作られていて、今も人々に愛され続けています。八朔の馬は、地元の藁で作ります。藁を濡らし、木の台で叩いて柔らかくし、編み込んで形を作ります。


芦屋釜(あしやがま)

文様と形の美、古来茶人に愛された茶の湯釜が現代に

「芦屋釜」は南北朝時代頃から、筑前国芦屋津(現在の福岡県遠賀郡芦屋町)で製作された鋳鉄(ちゅうてつ)製の茶の湯釜です。「真形(しんなり)」とよばれる端正な形と、胴部に表される優美な文様が特徴で、古くから茶の湯釜の名品として珍重されています。その製作は江戸時代初期頃に一旦途絶えますが、平成になって芦屋釜の調査・研究、復元製作が進められました。現在では、鋳物師(いもじ)達によって、再び芦屋釜の製作が行われています。


津屋崎人形(つやざきにんぎょう)

「素朴さ」と「重厚さ」で愛される人形

約230年の歴史を持つ素朴な素焼きの人形、津屋崎人形。古くから職人の家に代々伝わる土や石膏の「二枚型」の手押し製法で作られており、重厚な安定感に魅力があります。また彩色も、顔料を水とニカワで調合したもので施すため、鮮やかで力強いという特徴があります。人形は大型のもの、時代を反映した「風俗人形」、そして縁起が良いとされるフクロウの形をした優しい音色の「モマ笛」などがよく知られています。


福岡積層工芸ガラス(ふくおかせきそうこうげいガラス)

透き通り重なりあう美しさ

約90年前から製造されている「福岡積層工芸ガラス」は「マルティグラス(Multiple Layer Glass=多層積層硝子)」の名前で広く県民に親しまれている工芸品てす。性質の異なる素材を何層にも重ねるのが特徴で、高い透明度、豊かな曲線、そして代々受け継がれる130種類もの鮮やかな色から生まれる装飾品や食器は、人々の目を楽しませてくれます。現在も最高の品質を目指して職人が日々改良を重ねながら製作し、現企に至っています。


博多曲物(はかたまげもの)

日本人が重用してきた生活道具

「博多曲物」は、日本人が古来より重宝してきた生活道具です。特にご飯のおひつとしては、無駄な水分を飛ばし適度な湿度を保つという特性があり、現代でも寿司職人をはじめ多くの料理人に愛されています。使い方・片付け方次第では、50年にわたって使用が可能という、まさに理にかなった道具です。昭和初期、鉄道の開通とともに需要が増した弁当箱の生産によって広く使われるようになりました。


博多鋏(はかたばさみ)

刀鍛冶に始まる伝統と技の集大成

「博多鋏」の歴史は、およそ700年。南宋から博多へ移り住んだ貿易商人・謝国明(しゃこくめい)が、博多に持ち込んだ「唐鋏」に始まリます。
かつては幕府への献上品として、博多の刀鍛冶師たちの手によって造られました。鋭い切れ味の秘訣も、彼ら職人による刀づくりの製法に由来するものが多く、土台部分「地金」と刃部分「鋼」の鍛接(たんせつ)など、そのこだわりが随所に見られます。


博多張子(はかたはりこ)

昔ながらの縁起物

江戸中期、上方の人形師によって伝えられ木製や石膏製の型に和紙などを幾重にも重ねて成形される「博多張子」は、布苔によって貼り付け、天日干しで乾燥させたり、その後にニつに割って型かり取り出し、貼りあわせながら成型したりと、現在でも昔ながらの手の込んだ製法で作られています。ニカワで溶いた顔料で仕上げた色彩は色鮮やかで虎やダルマなどを主題とした縁起物として親しまれています。


博多独楽(はかたこま)

曲芸を生んだ精巧なつくり

独楽の日本での歴史は、中国から子どもの玩具として竹製の唐ゴマが伝来したおよそ1300年前が始まりです。初めての日本発祥ゴマと言われる「博多独楽』の誕生は、17世紀後半。木台に鉄芯を打ち込む「心棒」をもっているのが特徴です。その「心棒」によって回転時のバランスが保ちやすく、少ない振れでよく廻るので、独楽自体の可能性を飛躍的に向上させ、「曲芸独楽」の文化を生み出す起源にもなりました。


博多おきあげ

重なる布のぬくもりと美しさ 受け継がれる博多の押絵

おきあげとは、下絵を布や綿を使い立体的に盛りあげる押絵のこと。博多には女の子の誕生を祝しておきあげを贈る習慣がありました。博多おきあげの魅力は手描きの面相の繊細さと豊かさにあります。もともと江戸時代に宮中の女官らによって作られており、幕末に、今の博多区須崎町にいた画家・村田東圃の妻・千賀が博多の町に広めたといわれています。明治、大正時代には、博多の女性の教養の一つでした。現在は清水親子によってその製法が継承されています。


今宿人形(いまじゅくにんぎょう)

暮らしに密着した民俗人形 守り続ける型と伝統

博多人形の母体となった民俗土人形。明治38年に大橋清助が、今宿に節句人形工房「人清」を聞いたのがはじまりです。
伝統的な生活文化や伝承文化、信仰など人々の暮らしに結ぴついたものが多く、代表的なものに火災・盗難よけの「猿面」や「笹野才蔵」、「おたふく面」などがあります。素朴な中にも温かみのある今宿人形は、多くの人々に愛されました。
現在、清助と重雄が大切に使ってきた土型を引き継ぎ、重雄の姪が伝統を守り続けています。


木うそ

天神様の使い鳥

「木うそ」は、うそという小鳥が木に留まっている姿を表現しています。1591年、うその群れが太宰府天満宮造営の邪魔をしていた蜂の大群を退治したことから天神様の使いの鳥と言われるようになりました。
木うその特長の羽根はノミの一刀彫て簿く幾十にもカールしています。また、1月7日の天満宮の神事「うそかえ」にも用いられ、幸運の守り神として親しまれています。


杷木五月節句幟(はきごがつせっくのぼり)

筑後の節句を飾る、勇壮な幟

江戸時代、端午の節句Iこ飾られたことが起源といわれる五月節句幟。染めの鮮やかさと幟2本で1対となる勇壮さは、筑後地域の風物詩として地元の人々に親しまれています。特に朝倉(旧杷木町)地域は、筑後川の豊かな水が色染めの作業に適していたため、幟の生産が盛んになリました。現在では、室内に飾る小型のものが多くなりましたが、豊臣秀吉、加藤清正など武将の姿をあしらった華麗な幟は、今も男の子の逞しさを願う家々に飾られています。


英彦山がらがら

生活を守り続ける日本最古の土鈴

修験道の地、英彦山の麓である添田町で生まれた「英彦山がらがら」は、国内でも最古の約800年の歴史を持つ土鈴で、素焼きならではの清楚なガラガラという音色が特徴です。文武天皇が英彦山に奉納した鈴が由来とされ、戦乱の際に土に埋めた鈴の複製を、参拝者に分けたのが起源とされています。現在でも家々の玄関や門前に飾られる魔よけとして、また田畑の水口(みなくち)に埋め、災害を避けるためのお守りとして重宝されています。


棕櫚箒(しゅろほうき)

日常に根ざした「生活用品」

「棕櫚箒」は、各家庭の軒先に植えられた棕櫚で作った箒として、およそ30年前までは、農家の休耕期の副業として、多くの地方で生産されていました。棕櫚の繊維質には埃を吸い付かせる機能があり、これで毎日床婦除をすると棕櫚の皮の油分がなじみ、自然と床につやが出てきます。
また長年にわたって使用できる丈夫さを兼ね備えているため、古くから親しまれています。現在でも大量生産や海外からの低単価の商品の波に押されながらも、生活用品として愛用されています。

 

久留米おきあげ

押し絵雛で知られる布の文化

おきあげとは鮮やかな布などに綿を入れひとつひとつ重ねて作る「押し絵」のことです。特に羽子板や壁かけに見られる華やかな雛や歌舞伎役者などが代表的なものです。由来は諸説ありますが、有馬藩の参勤交代の際に土産として文化が持ち込まれたのではと言われています。明治、大正時代まで筑後一円で盛んに作られ、顔を描く「面目師」など専門の職人がいましたが、現在は主婦たちによってその製法が引き継がれています。


籃胎漆器(らんたいしっき)

丈夫で美しい日用品

籃胎とは、「竹かごを胎む(素地とする)」ことを意味します。その名のとおリ竹で編んだ器に漆をかけ、幾重にも研ぎ出して装飾加工を施し仕止げます。京都の名高い塗物師・勝月半兵衛を久留米藩に招いてつくった堅地塗の伝統を基礎とし、明治20年頃、茶人の豊福勝次、竹細工師の近藤幸七、塗師の川崎峰次郎の3人がカを合せて造り出したものだといわれます。姿の美しさだけではなく、軽く丈夫で、使うほどに味わいを増すことから長い年月に渡り、日常に用いる器として愛用されています。


城島鬼瓦(じょうじまおにがわら)

日本家屋の屋根を飾る、厳しい形相

城島の瓦づくりは、関ケ原の戦い後、久留米藩主として入城した有馬氏により始まリます。優美な光沢と格調高い姿形・耐久性には定評があり、九州各地の神社や仏閣・日本家屋などに使われ、知られるようになりました。屋根の端を飾る「鬼瓦」は、厳しい形相の鬼の顔はもちろん、雲や菊など、様々な形状を模した魔除けとして一家を守ります。


筑後和傘(ちくごわがさ)

繊細な巧の技が生み出す美しさと実用性

「筑後和傘」は、複雑な100以上の工程からなる細工が施された美しさと実用性を兼ね備える工芸品です。17世紀初めに地元の日吉神社の神官が副業としたことが発祥とされ、柄や傘骨の材料となる真竹が筑後川経由で入手できたこと、和紙や柿渋の名産地が近かったこと、技術を持つ職人が多かったことなどを背景に、和傘の一大生産地となりました。昭和20年ごろ、町内に500人いたとされる職人も今は途絶え、地元・城島の伝統を残そうと発足した保存会により、技術が継承されています。


鍋島緞通(なべしまだんつう)

日本の気候にふさわしい敷物

「鍋島緞通」は、元禄年間(約300年前)に古賀清右衛門が、中国からの技術を習得し「扇町毛氈」として織ったのがはじまりで、これが日本最古の綿緞通といわれています。海外の緞通が羊毛製であるのに対し、当時地元で多く採れていた木綿糸を使っていることが大きな特長で、高温多湿な日本の気候にふさわしい敷物として、その肌触りや使い込むほどに味わいを増す品質が多くの人々に愛されています。


八女手漉和紙(やめてすきわし)

耐久性に富んだ強靭な和紙

「八女手漉和紙」の起源は、九州で最も古く400年以上前、越前の僧・日源上人が、矢部川の地理や水質が製紙に過しているのを見て、加工術を伝授したと言われます。大きな特徴は、この地方特有の長い繊維の楮(こうぞ)を用いるために、他産地にはない強靭な和紙ができること。繊維が太く腰が強く、耐久性に富んでおり、掛軸、障子紙、ふすまの内張りなどの表装用の和紙として高い得価を受けています。


八女石灯ろう(やめいしとうろう)

凝灰岩(ぎょうかいがん)ならではのおもむき

「八女石灯ろう」の特徴は、地元から多く産出される凝灰岩にあります。凝灰岩は、軽くて軟らかく風化しやすい石材で、細かい細工に向かない反面、寒さや熱に強く石苔を早くつけやすいなど、庭灯ろうに最も適した石質を持っています。江戸時代、この地域では石橋づくりなどに多くの石工が活躍し、それに伴って石灯ろうの生産も盛んになリました。


八女竹細工(やめたけざいく)

長く愛される実用品

八女地方は、赤土の粘土性が高く、良質の真竹と孟宗竹に恵まれています。それらの竹を材料に作られる「八女竹細工」は、宝永年間(約300年前)に福岡藩と高鍋藩から技法が伝わり、やがてその技法がひとつに合わさって有馬藩の下級武士の副業として始まリました。特に縁巻きの仕上げの丁寧さが特徴で、巻きヒゴは一気に10m前後の薄いヒゴを作り、籠の縁にしっかり巻き付けます。染料も接着剤も使わないにもかかわらず、耐久性に優れ、5、60年は実用品として使用できる逸品です。


八女矢(やめや)

矢飛びの良さと美しさ

八女に矢師が多いのは、矢作りに適した良質の篠竹が豊富てあること、宝暦2年(1752年)に有馬藩お抱えの矢師が移リ住んだことが理由とされます。竹を炭火で炙りまっすぐに伸ばす「あらため」という技法、羽根のカットなど、すべて手作業で作られる「八女矢」。四本が一組みとなるため、長さ・重さ・節の位置・矢羽根がすべて均ーに揃えられていることが基本です。最近では、本物の素材と技術を用いた装飾用のミニチュアなども作られ、好評を博しています。


八女和ごま

大きくでた「ヘソ」が特徴

「八女和ごま」の起源は、菅原道真公が伝えたというものなど諸説があります。上面の中央部分にある大きくくぼんだ「ヘソ」が特徴で、これは明治時代以前の形状からの名残りではないかと言われています。こま作りには樹齢30年以上のまっすく伸びた木を、約1年を費やして乾燥させるなど、長期間の工程が必要です。また、こまを長く、勢いよく回すためには、木の芯がこまの中心になっていることが大切であり、熟練の枝が要求されます。


赤坂人形

素朴であたたかい土人形

「赤坂人形」は、江戸時代中期、有馬藩の御用窯として栄えた赤坂焼の産地で、陶工たちの余技として作られました。愛称となっている「ててっぽっぽ」とは、筑後の古い方言で「不器用な人」を意味し、その名がしめすとおりの粗い素焼きの容姿は、型を合わせる際にはみ出した部分が残ったままで、彩色も簡単なものであり、素朴さがあふれています。


きじ車

九州を代表する木製の玩具

「きじ車」は、九州を代表する木製玩具で素朴な中にかわいらしさをたたえます。開運や縁結び・家庭円満への「道案内」をすると伝えられ北原白秋の詩に詠まれたことで、全国に知られるようになりました。乾燥させた松や桐を材料に、釘を使わずセン刀と呼ばれるナタ一本で形を整え、絵付けが施されます。
なお、きじ車は北部九州の各地に、車輪の数やデザイン、「きじ馬」と称されるものなど、少しずつ異なる形態で伝えられています。

 

天然樟脳(てんねんしょうのう)

森がくれたやさしい香り

樟脳は約400年前から製造されており、防虫剤や芳香剤として人々の暮らしを支えてきました。樟の原木を小さな木片にし、甑(こしき)で蒸すことで発生する蒸気を冷やして結晶化させ、絞って固めることで樟脳が出来上がります。約6tもの樟から出来る樟脳はわずか25kgほど。最近では、製造過程で作られる樟脳油も、アロマオイルとして注目されています。合成樟脳の普及などにより一時は消えつつあった天然樟脳ですが、県内では唯一、みやま市の内野樟脳で守られ続けています。


掛川

い草で織り込む美しい紋様

仏前用の敷物として使われる「掛川」はい草の産地として知られる筑後一帯で古くから生産されてきました。い草特有の爽やかな香リと鮮やかな色彩には風格があり、折り目が詰まった独特の肌触りが人気です。掛川はい草農家が多かった40年ほど前まで、大木町て生活している女性の内職として盛んに織られていましたが、今でも、筑後の夏の風物詩的な存在として多くの家庭で愛用されています。


大川総桐箪笥(おおかわそうきりだんす)

桐の特性が活きた職人技

桐は、調温や保湿効果・難燃性に加え、防虫効果もある高温多湿な日本の風土にあった木材です。「大川総桐箪笥」は、そんな桐の特性を最大限に活かした、木目の美しさが魅力の家具で、最上の柾目の厚板を用いた、緻密な職人技で作られています。引き出しの奥には、空気の抜け穴となるカラクリもあるなど、緻密さゆえの開け閉めの感触や桐が持つ肌触りの良さも好まれています。


大川彫刻(おおかわちょうこく)

彫りの力強さと美しさ

「大川彫刻」は、薄物の屋久杉の板を使い、木目の繊細な線の美しさを生かすことで立体感を出す伝統の透かし彫りです。木を見極める職人の感性と日々鍛錬を重ねた技術に裏付けされた逸品です。その技術は立花藩の立川流の流れを組み、江戸末期には神社仏閣の装飾品が多く作られました。昭和に入るころにその高い技術は一般化し、日本家屋の実用性と装飾性を兼ねた様式として重宝されています。


大川組子(おおかわくみこ)

緻密な細工が描く木の紋様

「大川組子」は、約300年の歴史を誇る美しさと緻密さを兼ね備えた工芸品です。三組手と呼ばれる三角形の地組みの中に、200以上とされる図柄の組木を組み上げる技術には、数ミクロン単位を調整できる職人の勘が必要だと言われます。多い時は、数万個の部品により組み上げられますが、見た目は華奢でも、それぞれの部材が精巧に噛み合い、一枚の板のような頑丈さとなります。


柳川まり

女の子の初節句を飾る、愛情のかたち

「柳川まり」は、柳川地域に古くから伝わる、女の子の初節句のひな壇飾りである「さげもん」に欠かせない細工として、現代に受け継がれています。作り方は糸状の木片を丸めたものに、綿と毛糸で成型し、そこに草木染の木綿糸をそれぞれの柄にそった繊細な比率で巻きつけながら刺繍したものです。現在はカラフルな色彩のリリヤン糸も用いられます。


八女すだれ

万葉集にも詠まれた風情ある調度品

すだれは、奈良時代に遣隋使によって伝えられたといわれており、平安時代には、寝殿造りの間仕切りとして欠かせないものでした。八女地方では明治時代から竹細工用のヒゴが盛んに作られ、それを室内調度品として生産したのが「八女すだれ」の始まりです。最近では、旅館や店舗等で使用されているほか、一般住宅・寺社仏閣用の高級品として国内外に販売されています。


SHARE

次に読みたい特集記事

当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析、広告配信のためにCookieを使用しています。サイトを閲覧いただく際には、Cookieの使用に同意いただく必要があります。詳細はクッキーポリシーをご確認ください。
ページトップへ