【シュガーロード】長崎街道で育まれた福岡県銘菓の歴史をたどる
スイーツ大国ニッポン!そのルーツは、江戸時代にあります。海外との貿易拠点として栄えた長崎と、福岡県北九州市の小倉を結ぶ「長崎街道」に、大量の砂糖と菓子づくりの文化が入ってきました。長崎街道はいつしか「シュガーロード(砂糖の道)」と呼ばれ、沿線の各地域では、それぞれ独自の砂糖を使った食文化が花開いていきました。
シュガーロードの歴史を紐解きながら、福岡県に古くから伝わる銘菓の数々をご紹介します。
長崎街道から広まっていった砂糖食文化
江戸時代、日本は「鎖国」という政策をとっていましたが、完全に国を閉ざしていたわけではありませんでした。長崎と福岡県北九州市の小倉を結ぶ長崎街道は、鎖国中の日本と西洋や中国をつなぐ、唯一の街道としての役割を担っていました。
その道のりは57里(およそ228km)。北九州市・小倉を起点とし、海外との貿易港で幕府の直轄地だった長崎まで25(※)の宿場町が点在していました。
※時代やルートによって27などとす
長崎街道は、参勤交代で江戸へ向かう九州各地の大名、長崎警備に向かう武士、江戸幕府を訪れるオランダ商館長、各地を遍歴する商人や職人など、さまざまな人々が行き交う活気あふれる道でした。そして、海外からの輸入品や新しい技術、文化を日本全国へと運ぶ大動脈として大いに栄えたのです。
中でも砂糖は、当時の重要な輸入品の一つでした。長崎から国内へと運ばれる砂糖は、この街道沿いの各地域に菓子づくりの技法と一緒に流れ込み、その土地ならではの個性豊かな菓子文化が花開いていきました。このような背景から、長崎街道は「シュガーロード(砂糖の道)」とも呼ばれるようになりました。
【長崎街道の主な宿場町】
長崎県:【長崎市】日見(ひみ)・矢上(やがみ)、【諫早市】永昌(えいしょう)、【大村市】大村・松原・彼杵(そのぎ)
佐賀県:【嬉野市】嬉野(うれしの)、【武雄市】塚崎・北方(きたがた)、【江北町】小田、【小城市】牛津、【佐賀市】佐賀、【神埼市】境原(さかいばる)・神埼(かんざき)、【みやき町】中原(なかばる)、【鳥栖市】轟木(とどろき)・田代
※嬉野から【嬉野市】塩田、【武雄市】鳴瀬(なるせ)を通って小田に至るルートなど、ほかにも複数のルートがあります。
福岡県:【筑紫野市】原田(はるだ)・山家(やまえ)、【飯塚市】内野・飯塚、【北九州市】木屋瀬(こやのせ)・黒崎・小倉
Column
冷水峠石畳
筑前六宿と冷水峠
福岡藩には、多くの旅人や物資が行き交い、にぎわった6つの宿場町がありました。現在の北九州市にある黒崎宿と木屋瀬宿、飯塚市にある飯塚宿と内野宿、そして筑紫野市にある山家宿と原田宿で、これらはまとめて「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼ばれています。
その始まりは、慶長17年(1612年)に初代福岡藩主の黒田長政が、内野宿から山家宿へ続く難所「冷水峠(ひやみずとうげ)」を整備したことだとされています。幕府が参勤交代を制度化した寛永12年(1635年)以降は、大名行列も通行するようになり、本格的な宿場町へと発展していきました。
砂糖は希少品から大量輸入の時代へ
日本に砂糖が初めてもたらされたのは奈良時代のことです。当時は食用ではなく、ごく少量が薬として使用されていました。
本格的に輸入されるようになったのは、16世紀後半にポルトガルとの貿易が始まってから。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、キリスト教布教の許可を得るために京へ行った際、織田信長にガラス瓶に入った金平糖を献上したとの記録が残っています。
江戸時代に入ると、鎖国政策によってポルトガル船の来航が禁止されましたが、代わりにオランダ船や唐船(中国船)がアジアやヨーロッパの文物を積んで来航するようになりました。中でも砂糖は重要な商品で、18世紀には大量の砂糖が輸入されていたといわれています。
長崎は大量の砂糖であふれた
オランダ船や唐船で長崎に輸入された砂糖は、まず出島や新地で陸揚げされました。その後、幕府の貿易機関である長崎会所が一度にすべてを買い取り、入札によって国内の商人に売り渡しました。その大半は商人たちが長崎から船で直接大坂(現在の大阪)へと運んでいましたが、長崎の町には正規の貿易ートとは別に、さまざまな形で砂糖が出回っていました。
たとえば、オランダ商館員や中国人商人たちは、花街・丸山の遊女に砂糖を贈ることもあり、これは「貰(もらい)砂糖」と呼ばれていました。
また、港で荷役作業にあたる日雇人足たちには、作業中に砂糖をこっそり抜き取ることを防ぐため、あらかじめ「盈(こぼれ)物砂糖」という名目で砂糖が与えられていました。さらに砂糖の一部は、長崎の興福寺や福済寺などの唐寺(中国式の寺院)へ唐船から寄進されていました。これは「寄進(きしん)砂糖」と呼ばれていました。
このようにして正規の貿易ルートを通らず長崎の町に出回った砂糖の量は、なんと輸入量全体の5%〜10%にも上ったといわれています。
砂糖を直接流通させるルートを作った福岡藩
福岡県に砂糖が入ってきたのも江戸時代のことでした。
当時、福岡藩は佐賀藩とともに幕府から長崎警備を命じられていました。そのため約2,000人もの藩士が一年おきに長崎へ派遣されており、この藩士たちの食料や長崎で必要な物資の調達に、多額の経費がかかっていました。長崎警備は、藩にとってかなりの財政負担となっていたのです。
この負担を減らすため、福岡藩は長崎に蔵屋敷(物資の貯蔵・販売を行う施設)を設置しました。さらに、藩の御用商人などを長崎問屋に任命し、それまでは大坂を経由していた砂糖などの輸入品を、直接藩内へと流通させる独自のルートを作り上げました。佐賀藩も同じような対策を取ったため、北部九州の2藩には18世紀から砂糖が豊富に出回るようになったといわれています。
誰が砂糖食文化を伝えたのか?
ポルトガルとの貿易は寛永16年(1639年)に禁止され、ポルトガル人は日本国内から追放されました。それでも「カステラ」「ボーロ」「コンフェイト(金平糖)」などの南蛮菓子は、異国情緒あふれる菓子として人気がありました。
これらの南蛮菓子は、元禄2年(1689年)に唐人屋敷に隔離されるまで長崎市内に住むことを許されていた唐人(中国人)が、その製法や技術を伝える上で重要な役割を果たしていたと考えられています。
その後、長崎では菓子類を製造販売する店が次々と増えていきました。享保5年(1720年)頃には、南蛮菓子が長崎土産として町のあちこちで売られていたそうです。
こうした環境の中で、長崎に蘭学を学びに来た学者・医者、そして各地を遍歴する商人・職人たちが、その砂糖を使った食文化に触れていきました。彼らは長崎で生まれた菓子づくりの技術などを、長崎街道を通じて日本全国へと伝えていったのです。
福岡県を舞台に近代のシュガーロードが誕生
江戸時代の終わり頃、安政5年(1858年)に結ばれた日米修好通商条約をきっかけに、横浜をはじめ各地の港が開かれるようになりました。これにより長崎の貿易港としての地位は次第に低下していきます。さらに明治22年(1889年)、九州に鉄道が開業すると、長崎街道からもかつてのにぎわいが失われました。
しかし、砂糖の道が閉ざされることはありませんでした。明治37年(1904年)に北九州市の門司・大里に、台湾から輸入される砂糖を扱うための製糖所が設立されると、北部九州に新たなシュガーロードが誕生します。
明治20年代から30年代にかけて、筑豊地域の炭鉱には三井、三菱、住友、古河といった中央資本が進出。さらに明治34年(1901年)に官営八幡製鐵所が操業を開始すると、福岡県では炭鉱と製鉄を軸とした近代産業社会が全国に先駆けて発展します。炭鉱や製鉄所で重労働を行う労働者にとって、砂糖を使った甘い菓子は、すぐにエネルギーを補給できる大切な栄養補助食品として重宝されました。
石炭を積み出すために敷かれた鉄道は、菓子の材料となる砂糖や豆類を運び込みました。そして、羊羹などの菓子が次々に積み出されていく様子は、まさに近代のシュガーロードにふさわしい光景だったといえるでしょう。
「筑豊の炭都」と呼ばれた飯塚地方の銘菓
江戸時代、長崎街道の北部にあたる福岡県では、もち米を麦芽で酵素発酵させて作る、日本古来の甘味料である麦芽飴が盛んに作られていました。その後、砂糖を原料とした砂糖飴が伝わってきた後も、昔ながらの麦芽飴は引き続き生産されていたのです。
しかし近代に入ると、石炭産業の隆盛とともに状況は変わっていきます。インゲン豆に砂糖を加えた白餡を、小麦粉と卵で作ったカステラ生地で包んで焼き上げたカステラ饅頭が人気を集めるようになりました。南蛮菓子の影響を受けたカステラ饅頭は、贈答品としても重宝され、明治から昭和にかけての炭鉱景気を背景に、筑豊地域に一大菓子文化を築き上げたのです。
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名菓ひよ子
ひよ子穂波工場円形や四角形の饅頭しかなかった時代に、可愛らしいひよこの形をしたデザインで人気を集めました。1964年の東京オリンピック開催を機に東京へ進出。「東京ひよ子」が東京駅などで販売されると、東京土産としても広く知られるようになりました。
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千鳥饅頭
千鳥饅頭総本舗(千鳥家本店)薄いカステラ生地の皮で白餡を包んだ焼き饅頭。表面に千鳥の焼き印が押されているのが特徴です。筑豊地域の炭鉱で働く労働者たちの間で、甘いものが疲労回復に役立つとして親しまれ、故郷へのお土産としても人気を集めました。炭鉱王として知られる伊藤伝右衛門も好んだとされます。
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江戸時代の面影が残る「飯塚宿」「内野宿」
飯塚市には「飯塚宿」「内野宿」という、長崎街道の筑前六宿に数えられる2つの宿場町がありました。
飯塚宿は、遠賀川による水運と長崎街道の交点として、多くの人や物資が行き交った宿場町。内野宿は、長崎街道最大の難所といわれた冷水峠にもっとも近い宿場町だったことから、峠越えを控えた旅人の重要な宿泊地として栄えました。
両宿とも、道筋や町家の配置などに江戸時代の宿場の面影を色濃く残しています。道標や石碑を頼りに散策してみてはいかがでしょうか。
江戸時代から甘味が広く受け入れられていた北九州
長崎から遠く離れた北九州では、江戸時代にはすでに飴が甘味料として使われていました。そのため、長崎から伝わった南蛮菓子が北九州で広く作られるようになったのは、近代に入ってからのことでした。
しかし当時の記録を見ると、江戸の町人の虫歯率が11.7%だったのに対して、小倉の町人の虫歯率は26.9%と、倍以上も高かったことがわかります。このことから、江戸時代の小倉では、すでに砂糖が食文化に深く根付いていたことがうかがえるでしょう。
明治に入り、1901年に官営八幡製鐵所が設立されると、重労働で疲れた労働者のために、砂糖を使った菓子の需要が高まっていきました。そして、昭和初期頃までには、北九州を代表する個性的な銘菓が数多く誕生していったのです。
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栗饅頭
江戸時代の海外貿易で製法が伝えられた焼き饅頭の皮で、栗と餡を包んだ「栗饅頭」。現在、小倉でもっとも古い菓子店である湖月堂の看板商品です。明治時代には乾燥させた「搗(勝)栗(かちぐり)」を使用していたことから、「勝ち」につながる縁起物として評判になりました。
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小菊饅頭
箱に描かれている「企救(きく)の長浜」という景勝地で売られていた饅頭がルーツです。名前の「菊」も「企救」が由来といわれています。米粉とすりおろした薯蕷(じょうよ)芋の皮で白餡や小豆餡を包んだ一口サイズの饅頭は、街道を行き交う旅人の間で評判となり、やがて小倉名物となりました。
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くろがね羊羹
大正時代末期に、官営八幡製鐵所の厚生部門が従業員の栄養補給食品として開発、販売した羊羹。あえて強い甘みが出る上白糖を使用し、手軽に食べられるよう作業服の胸ポケットに入るサイズに作られました。激しい肉体労働に従事する人々のカロリー源として重宝されました。
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金平糖
南蛮菓子の代表格である「金平糖」は、ケシの実やゴマを核にシロップで固めたポルトガル菓子“コンフェイト”が語源です。日本に伝わった後、ざらめを核にし、砂糖だけを原料とする独自の金平糖が誕生しました。現在は北九州市八幡西区にある入江製菓が、九州で唯一、その伝統的な製法を守り続けています。
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小倉の菓子文化発展に貢献した広寿山福聚寺
江戸時代初期の寛文5年(1665年)に、小倉藩主の小笠原忠真は、先祖を祀る寺として広寿山福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)という立派な寺を建てました。寺は、中国から招かれた黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖・隠元禅師の高弟・即非如一(そくひにょいつ)という高僧によって開かれました。
この広寿山福聚寺には、藩主の御用菓子屋が仕えていて、唐饅頭などの菓子を納めていました。そのため、福聚寺は小倉の菓子職人の技術向上や、この地域の菓子文化の発展に多大な影響を与えたといわれています。
シュガーロードで育まれた福岡県の銘菓を味わってみて!
日本人が砂糖と本格的に出会ってから、400年以上もの長い年月が流れました。シュガーロードを通じて根付いた砂糖を使った食文化は、それぞれの地域の特色や人々のアイデアと工夫によって独自の発展を遂げ、今も大切に受け継がれています。
長崎街道沿いの各地域に足を運ぶと、菓子職人の技を間近で見たり、実際にその味を確かめたり、時には菓子づくりを体験したりすることができるでしょう。
福岡県を訪れた際には、ぜひ今回ご紹介した銘菓の数々を味わいながら、シュガーロードが育んだ菓子の豊かな歴史と文化に思いを馳せてみてください。
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「砂糖文化を広めた長崎街道〜シュガーロード〜」が日本遺産に認定!
「砂糖文化を広めた長崎街道~シュガーロード~」は、砂糖や菓子文化の伝来・発展の歴史、地域ごとに受け継がれる伝統技術と景観、それらを活かした地域活性化の取り組みが総合的に評価され、2020年6月に日本遺産に認定されました。
「シュガーロード連絡協議会」では、長崎県、佐賀県、福岡県の3県にまたがる8市(長崎市、諫早市、大村市、嬉野市、小城市、佐賀市、飯塚市、北九州市)と、菓子業界や関係機関が連携して、シュガーロードの歴史と文化を活かし、西九州一帯の地域振興や観光の活性化を目指しています。
「シュガーアイランド九州菓子祭り in だざいふ」開催
2025年秋、九州国立博物館開館20年の記念イベントとして「シュガーアイランド九州菓子祭り in だざいふ」が開催されます。太宰府には、お菓子の神様・菓祖「田道間守命(たじまもりのみこと)」を祀る中島神社があり、梅ヶ枝餅は参道グルメの定番。「砂糖文化を広めた長崎街道~シュガーロード~」の日本遺産認定5周年も合わせて、太宰府全体がお菓子やスイーツでいっぱいになる楽しいイベント満載です。文化の秋、食欲の秋にぜひ、“シュガーアイランド九州”で育まれた菓子文化の奥深さに触れてみませんか。
【シュガーアイランド九州菓子祭り in だざいふ】
期間:2025年10月7日(火)~12月21日(日)※11月4日(火)は休館、菓子販売は11月3日(月・祝)まで
①きゅーはく秋のツアー「甘味求心」:10月7日(火)~12月21日(日)4F文化交流展示室、1Fあじっぱ
②アーティスト渡辺おさむ~お菓子のミュージアム:10月28日(火)~11月9日(日)1Fミュージアムホール
③日本遺産シュガーロード&菓子祭り:10月28日(火)~11月3日(月・祝)1Fエントランス
④太宰府スイーツマンス:10月28日(火)~11月24日(月・振休)太宰府市内スイーツショップ
【きゅーはく秋のツアー「甘味求心(かんみきゅうしん)」】
2025年10月7日(火)~12月21日(日)4F文化交流展示室、1Fあじっぱ
展示室や分野を横断して回遊するように作品を鑑賞するツアー。「甘味」「スイーツ」をテーマに取り上げ、砂糖やお菓子にまつわる美術工芸品、考古資料、歴史資料などを展示します。
【アーティスト渡辺おさむ~お菓子のミュージアム】
2025年10月28日(火)~11月9日(日)1Fミュージアムホール
スイーツデコアーティストとして活躍する渡辺おさむ氏の「スイーツ・アート展」。思わず食べたくなるほど本物そっくりのお菓子に似せた素材で作る、華やかで可愛らしいスイーツアートの世界を堪能できます。
【日本遺産シュガーロード&菓子祭り】
2025年10月28日(火)~11月3日(月・祝)1Fエントランス
シュガーロード沿線(長崎県、佐賀県、福岡県)や九州各地の老舗・人気スイーツの販売、太宰府市「梅プロジェクト」で商品開発されたお菓子や食材など、伝統菓子からトレンド菓子までおいしいお菓子が勢揃い!
【太宰府スイーツマンス】
2025年10月28日(火)~11月24日(月・振休)太宰府市内スイーツショップ
太宰府市内のスイーツショップを周遊する企画。さわやかな秋の日、スイーツ散策を楽しんでください。
<参考文献>
日本遺産 砂糖文化を広めた長崎街道~シュガーロード~ガイドブック
企画・発行:シュガーロード連絡協議会