4つの大藩からひもとく福岡の魅力 〜福岡藩・小倉藩・久留米藩・柳川藩〜-1

4つの大藩からひもとく福岡の魅力
〜福岡藩・小倉藩・久留米藩・柳川藩〜

江戸時代には、福岡藩・小倉藩・久留米藩・柳川藩という4つの大藩に分かれていた福岡県(※1)。それぞれの藩の地理的特性などに合わせて、独自の政治・経済・文化が育まれました。今もその名残が各地域の風習や人々の気質に現れています。江戸時代に福岡県を統治した4つの大藩で培われたお国柄とはどのようなものか、その歴史を一緒にたどってみましょう。

※1:ほかにも、10万石以下の秋月藩、三池藩などがありました。


4つの大藩が治めた江戸時代の福岡県 〜それぞれの地勢とお国柄〜

現在の福岡県は、旧国名の筑前(ちくぜん)、豊前(ぶぜん)、筑後(ちくご)の3か国から構成されています。3か国を隔てる国境は、山や大きな川などの地勢を目安に線引きされており、江戸時代には筑前国の大半を福岡藩が、豊前国の大半を小倉藩が、筑後国は北部と南部の大半をそれぞれ久留米藩と柳川藩が治めていました。

福岡藩(52万石)黒田家がほぼ一国を治めた筑前国には、古代の外交施設である鴻臚館(こうろかん)や中世の貿易都市・博多があったため、古くから朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んに行われ、交易によって民衆の間には新しい文化を生み出す“進取の精神”が育まれました。
関門海峡に臨む小倉藩は、九州と本州をつなぐ交通の要衝だった豊前国を治めていました。当初の外様大名・細川家(39万石)に代わり、長くこの地を治めたのは譜代の小笠原家(15万石)。九州各地の大名を監視するという、幕府にとって軍事的・政治的に重要な拠点としての役割を担いました。
薩摩街道や日田往還といった、陸上交通路の中継地として商業が栄えた筑後北部を治めた久留米藩(21万石)。4つの大藩の中で唯一海がないという地勢が、堅実で負けず嫌いな気質を育んだといわれ、地場産業の発展を強く支えていきました。
筑後南部を治めた柳川藩(11万石)は、ほかの3藩と比べて交通の便には恵まれませんでした。しかし、九州出身の藩主・立花氏による安定した治世のもと、そこに暮らす人々は独立心が旺盛で地域に対する強い郷土愛を持つようになりました。


福岡藩:町人パワーを活用し、賑わいを創出

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で徳川方について戦功をあげた黒田長政(ながまさ)は、戦いの後、筑前国ほぼ一国を与えられて福岡藩の初代藩主になりました。長政の父は、豊臣秀吉の軍師として名を馳せた黒田官兵衛(かんべえ/孝高、如水)。藩名の「福岡」は、官兵衛の曽祖父・祖父が備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町)に住んでいたことにちなんで名付けられたといいます。
官兵衛と息子の長政が築いた福岡藩の特徴は、「町人パワーの活用」と「勤倹尚武(きんけんしょうぶ)」。筑前国には海外交易の拠点として栄えた博多がありましたが、官兵衛・長政父子は、博多の豪商たちから過酷な税を取り立てるより、彼らの協力を得ながらそのエネルギーを藩の運営に活かそうとしました。また、「勤倹尚武」というのは、勤勉、倹約、武芸の尊重という意味です。黒田家の家訓には「贅沢をするな、見栄を張るな、大きな屋敷を構えるな」というものがあり、その勤勉ぶりが評価され外様大名ながら幕府からも高い信頼を得ていました。
 

Column

「黒田節」に唄われた黒田武士-1

西公園にある母里友信像

「黒田節」に唄われた黒田武士

「酒は飲め飲め〜」というフレーズで知られる黒田節は、福岡藩士の豪快な気質を伝える民謡です。歌われているのは、黒田長政の家臣・母里太兵衛(もりたへえ、友信)の武勇伝。酒豪で名を馳せていた福島正則邸の酒宴で、太兵衛がすすめられたのは大杯の酒でした。それを飲み干し、褒美に福島家秘蔵の天下三名槍の一つ「日本号」を得たという逸話が歌詞に込められています。この豪胆な物語を背景に、黒田節は福岡藩士の誇りとして歌い継がれ、昭和17年(1942年)にレコード化されたことで全国に広まりました。


福岡藩の治世が感じられる見どころ

  • 福岡城跡

    福岡城跡

    福岡県で一番広い城地を誇る福岡藩黒田家の居城・福岡城。今も残る石垣や縄張りなどから、藩の政治や軍事の拠点としてのスケールの大きさが分かります。天守台跡はありますが、天守の存在を示す資料が長らく見つからず、“幻の天守”と呼ばれていました。しかし昭和50年代後半以降、天守の存在を推定させる古文書が発見され、現在では天守が存在したと考える学説が増えてきています。今後の発掘調査に期待が寄せられています。

    もっと見る
  • 友泉亭公園

    友泉亭公園

    福岡藩6代藩主・黒田継高(つぐたか)が設けた別邸跡を、福岡市が日本庭園として整備した歴史公園。当時の敷地は現在の約10倍もの面積があり、歴代の藩主が鷹狩や公務の合間に心身を休める場所として利用されていました。政治・軍事の拠点だった福岡城とは異なり、この別邸には武家文化に根ざした美意識が反映されており、藩主の優雅な暮らしぶりを垣間見ることができます。

    もっと見る
  • 朱漆塗合子形兜・黒糸威五枚胴具足(福岡市博物館蔵)

    福岡市博物館

    福岡市博物館には、福岡藩主黒田家の歴代藩主の甲冑や刀剣、古文書などが多数収蔵されています。なかでも見どころは、藩祖・黒田官兵衛の朱漆塗合子形兜(しゅうるしぬりごうすなりかぶと)・黒糸威五枚胴具足(くろいとおどしごまいどうぐそく、官兵衛が使用したのは胴の部分)(※1)。そして、黒田節でお馴染みの名槍「日本号」。戦国時代を生き抜いた黒田家の歴史と力強さを象徴する逸品を間近で見ることができます。
    ※1:展示予定日については、福岡市博物館公式サイトをご確認ください。
    ※2:写真は朱漆塗合子形兜・黒糸威五枚胴具足(福岡市博物館蔵)

    もっと見る

小倉藩:知勇に秀でた武将によって、文化が花開く

小倉藩の初代藩主となったのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で戦功をあげて豊前国を与えられた細川忠興(ただおき)です。忠興は利休七哲(しちてつ)に数えられるほどの高い教養を持ち、武芸にも秀でた知勇兼備の武将でした。慶長7年(1602年)に小倉城に居を移すと、忠興はそれまでの城を大規模に改修し、自らが育った京都をお手本に城下町を整備。小倉の繁華街が碁盤の目状になっているのは、忠興による計画的な町づくりの結果だといわれています。
その後、忠興の跡を継いだ細川忠利(ただとし)は、寛永9年(1632年)に肥後国熊本へ転封。小倉藩は甲斐源氏の血をひく名門で、武家の礼法作法を司る小笠原流宗家の小笠原忠真(ただざね)が治めることになりました。忠真は先代忠利の正室・千代姫の兄で小倉入りはスムーズに進んだとされますが、それ以上に、忠真の母が徳川家康の孫娘、正室が家康の養女という、徳川家と極めて深い縁を持つ譜代大名だったことが重要でした。この血筋と立場から、忠真は九州各地の外様大名を監視するお目付け役としての役割も担うことになります。

Column

有名な決闘の舞台・巌流島は小倉藩領だった-1

小倉城天守閣前に設置された武蔵と小次郎のモニュメント(小倉城提供)

有名な決闘の舞台・巌流島は小倉藩領だった

剣豪として知られる宮本武蔵は、江戸時代初期の剣術家です。武蔵が人生において最も長く滞在した地が小倉で、その期間は約7年。武蔵と巌流島で戦った佐々木小次郎も小倉と縁が深く、小倉藩主・細川忠興に仕え、藩の剣術師範を務めたといわれています。
また、決闘の地となった巌流島(正式名称は船島)も当時は小倉藩領でした(現在は山口県下関市)。巌流島へは門司港から連絡船で約10分。巌流島を遠望できる手向山(たむけやま)公園では、武蔵と小次郎を偲んで毎年春に「武蔵・小次郎まつり」が行われています。


小倉藩の治世が感じられる見どころ

  • 小倉城

    小倉城

    福岡県で唯一、天守閣を持つ小倉城。その高さは約28.7mと全国第6位を誇ります。華やかで美しい白色の天守閣は見る人を圧倒する存在感を放ち、九州各地の外様大名を威嚇するような風格を漂わせています。現在の天守閣は昭和34年(1959年)に再建されたもの。北九州市のシンボルとして市民に親しまれ、春には多くの花見客が訪れます。

    もっと見る
  • 小倉城庭園

    小倉城庭園

    小倉藩藩主・小笠原家の下屋敷跡に造られた池泉回遊式の大名庭園と、江戸時代の典型的な武家書院を再現した文化施設です。小笠原家は、武家の礼儀作法「小笠原流礼法」の宗家。小倉城庭園では「小笠原流礼法」の歴史や精神を紹介し、当時の伝統的な生活文化を現代に伝えています。都心にありながら、静かで落ち着いた雰囲気をゆっくり堪能できるスポットです。

    もっと見る
  • 到津(いとうづ)八幡神社

    到津(いとうづ)八幡神社

    小倉を治めた細川氏や小笠原氏が、「小倉城の産土神(うぶすながみ=土地の守り神)」として篤く信仰していた神社。この地に神功皇后が船を着けたことに由来し、古くから安産や子育てにご利益があるといわれています。文治4年(1188年)に後鳥羽上皇の命で宇佐八幡大神が勧請され、到津八幡宮と呼ばれるようになりました。

    もっと見る

久留米藩:質素倹約ながら、飽くなき挑戦意欲を持つ

兵庫県・有馬温泉の辺りを出自とする有馬豊氏(とようじ)は、元和6年(1620年)に大坂の陣での戦功が認められ、21万石を与えられて久留米藩を開きました。豊氏の正室は徳川家康の養女・連姫で、徳川家と親戚関係にあたるため、小倉藩の小笠原家と同様、九州各地の外様大名を監視する役割を担っていたと考えられています。
豊氏以降、有馬家では荒廃していた久留米城の修復と城下町の整備に取り掛かりましたが、島原の乱への出兵なども重なって厳しい財政状況に陥っていました。そのため久留米藩では、領内の安定と米の増産を図る目的で、筑後川の治水や水利事業を推進。また、学問・教育・産業振興にも力を入れました。その結果、久留米絣(かすり)などの地場産品の販路拡大や技術導入が進み、藩を代表する産業として成長。このような背景によって、久留米藩では質実剛健でありながら飽くなき挑戦心が育まれたといわれています。

Column

海なし藩にも関わらず、海軍を導入したチャレンジ精神-1

慶應3年(1867年)に久留米藩が購入した軍艦・千歳丸(久留米市教育委員会提供)

海なし藩にも関わらず、海軍を導入したチャレンジ精神

筑紫平野の真ん中に位置する久留米藩。領内に海はありませんが、幕末期には7隻もの蒸気船や洋式帆船を所有し、全国でもトップクラスの海軍力を誇っていました。水軍創設のきっかけは正保4年(1647年)、長崎にポルトガル船が来航して国交を求めた事件。これを受けて2代藩主・有馬忠頼(ただより)が「御船手組(おふなてぐみ)」と呼ばれる水軍を創設しました。ペリー来航の3年前には、久留米藩参政の村上量弘(かずひろ)が「海防治標」で軍艦建造と海軍力強化を説き、薩英戦争後には海軍創設と洋式船購入、大砲や鉄砲生産などの富国強兵政策を推進。このチャレンジ精神や技術革新への積極性は、現在の久留米人気質につながっているといえるでしょう。


久留米藩の治世が感じられる見どころ

  • 久留米城跡

    久留米城跡

    初代藩主・有馬豊氏が元和7年(1621年)に初めて国入りした当時、久留米城は廃城で、豊氏は城下の商人や大庄屋の家に仮住まいしていました。その後約70年かけて、高さ約15mの石垣の上に、7棟の櫓(やぐら)と多聞櫓で囲まれた本丸が築かれました。天守は存在せず、本丸の中心には藩主が政務を行う御殿があったのだそう。現存する石垣と堀跡からは21万石の大藩にふさわしい威容だったことがうかがえます。

    もっと見る
  • 有馬記念館

    有馬記念館

    久留米藩主・有馬家ゆかりの歴史資料や美術工芸品などを収蔵・展示。館内では、本丸の様子を精巧に模した模型や詳細な年表などを用いて、久留米城築城から幕末に至るまでの城下の変遷を分かりやすく解説しています。また、約250年間に渡って久留米藩を治めた有馬氏の治世や文化的な功績についても、深く知ることができます。

    もっと見る
  • 水天宮

    水天宮

    東京をはじめ各地に点在する水天宮の総本宮。壇ノ浦合戦で敗れた平家ゆかりの女官が、鎌倉時代初期の建久年間(1190年〜1199年)に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたことに由来すると伝えられています。その後、2代藩主・有馬忠頼(ただより)によって現在の地に移され、有馬氏が代々崇拝し手厚く保護。現在は安産や水難避けの神様として、多くの参拝客が訪れています。

    もっと見る

柳川藩:水郷の町が育んだ、穏やかで協調性のあるお国柄

豊臣秀吉から「九州の一物」と称えられた立花宗茂(むねしげ)が、天正15年(1587年)から治めていた柳川藩。しかし宗茂は関ヶ原合戦で西軍に味方したため改易(領地と身分を没収されること)となり、関ヶ原合戦で手柄をあげた田中吉政(よしまさ)が代わりに領主となりました。田中吉政は柳川城の改修と城下町の整備を行い、2代にわたって筑後一国を治めたものの、跡継ぎがなく断絶。非常に珍しいケースですが、陸奥国南郷(現在の福島県東白川郡棚倉町)の大名となっていた宗茂が元和6年(1620年)、柳川藩に復帰しました。
宗茂は、南郷時代の家臣や肥後加藤家に仕えていた旧家臣団を呼び戻して藩政に臨み、善政を敷いたといわれています。宗茂以降も立花家では代々、干拓や治水事業に力を注ぎ、米の増産を図りました。立花家による治世の安定や、掘割を活かした町づくりによって、城下には地域に対する愛着が生まれ、協調的な気風が育まれていきました。

Column

柳川藩の財政を救った横綱・雲龍-1

柳川藩の財政を救った横綱・雲龍

第10代横綱・雲龍久吉は、現在も行われる横綱土俵入り「雲龍型」の創始者です。文政5年(1822年)に柳川で生まれた雲龍は、幼少の頃から怪力を誇り、地元の相撲で活躍。その後、藩の御用商人・高椋新太郎らの援助により大坂を経て江戸相撲に入門し、新入幕で初優勝を飾りました。財政難に苦しんでいた柳川藩は、雲龍のタニマチだった高椋新太郎を大坂へ派遣し、豪商からの借金を計画します。高椋は宴席で雲龍と弟子たちに「揃い踏み」を披露させ、その迫力に驚いた豪商たちから見事に1万両の融資を取り付けたという逸話が残されています。

もっと見る

柳川藩の治世が感じられる見どころ

  • 柳川川下り

    柳川川下り

    柳川の町中に張り巡らされた掘割を“どんこ舟”と呼ばれる舟で約1時間かけて巡ります。掘割は、江戸時代の初めに城の防御や農業・生活用水の確保、また物流路として使用された暮らしに欠かせないインフラでした。掘割沿いには土塀や蔵、古い町家、柳川藩主立花邸御花などが並び、それらを水上から眺めると、水とともに生きた柳川の人々の暮らしぶりを体感できます。

    もっと見る
  • 写真:御花

    御花(柳川藩主立花邸)

    5代藩主・立花貞俶(さだよし)が元文3年(1738年)に柳川城二の丸から移築し、城の南西隅に建てた立花家の別邸。約7,000坪の敷地全体が国指定名勝「立花氏庭園」で、現在は宿泊施設として利用されています。園内には美しい日本庭園「松濤園」や迎賓館として建てられた「西洋館」などがあり、戦国時代から荒波を乗り越えてきた立花家と柳川藩の歴史を今に伝えています。

    もっと見る
  • 福嚴寺(ふくごんじ)

    福嚴寺(ふくごんじ)

    初代藩主・立花宗茂をはじめ、歴代藩主の墓や位牌が安置されている菩提寺。元々は立花山の麓にあり、梅岳寺という曹洞宗の寺院でしたが、宗茂が城を構えたのに伴って柳川に移されました。寛文9年(1669年)に3代藩主・立花鑑虎(あきとら)の命で黄檗宗に改宗し、寺名を梅岳山福嚴寺と改めました。歴代当主の肖像画が寺宝として伝わるなど、立花家とのつながりが深い寺院です。

    もっと見る

藩のシンボル「城」「城下町」の特徴や見どころは?

戦国時代に軍事拠点だった「城」は、江戸時代になると権威の象徴という意味合いが強まり、政治の中心地としての役割を担うようになります。「城下町」には藩の役所が置かれ行政機能を担ったほか、商人や職人が集められて経済も発展していきました。

【福岡藩】
九州随一の規模を誇る福岡城。初代藩主・黒田長政によって7年もの歳月をかけて築城され、周辺には武家屋敷が立ち並ぶ城下町が広がっていました。那珂川を挟んだ東には、商人の町・博多。長政は那珂川の下流に橋を建設し、この2つの地域を結びつけて交流を図ることで、福岡を発展させていこうと考えたのです。城内には国指定重要文化財の多聞櫓や天守台、石垣などが残り、当時の面影を見ることができます。

【小倉藩】
関門海峡に面した小倉は、本州と九州を結ぶ玄関口。交通の要衝で、古来より砦や城が築かれていました。戦国時代には、毛利氏が現在の小倉城の場所に城を築き、その後、慶長7年(1602年)から細川忠興が約7年かけて築城しました。現在の天守は昭和期に再建されたもので、4階と5階の間に庇(ひさし)がなく、5階が4階よりも大きい「唐造り」が特徴。碁盤の目状に整備された城下町は、西側が主に武士町、東側が主に町民町です。長崎街道や九州五街道の起点として宿場町も栄えました。

【久留米藩】
久留米城は、筑後川沿いの小高い山に築かれた平山城で、筑後川が天然の堀になっています。この場所は水運の要衝でもあり、以前から小規模な城郭が築かれていましたが、元和7年(1621年)に久留米藩初代藩主となった有馬豊氏が、大改修を行い居城としました。現在は堀と石垣を残すのみですが、本丸には2層の多聞櫓が全周し、白亜の3層櫓を配置した壮大な城だったことがわかっています。城下町には、東西に長い幹線道路が整備され、城の南側を守る防衛拠点が設けられていました。

【柳川藩】
掘割を四方に巡らせ、九州屈指の難攻不落の城として知られる柳川城。もともとは戦国時代末に、この地を治めた蒲池氏が築城しました。豊臣政権期には立花宗茂が入城し、関ヶ原合戦で改易となった宗茂に代わり、田中吉政が筑後35万石の大名として入りました。吉政は城を大改修し、5層5階の天守を備えた立派な近世城郭を築き上げました。元和6年(1620年)に田中家が断絶した後は再び立花氏が城主となり、城下町を御家中・柳河町・沖端町の3区画に分けて統治しました。


藩政を担う人材を育てた各藩の教育事情は?

江戸時代、武家は為政者としてふさわしい教養を身につけるべきと考えられ、武芸とともに学問が奨励されました。そのための教育機関が「藩校」です。「藩校」では幕府の方針に基づいて主に儒学を教えていました。

【福岡藩】
福岡藩では、天明4年(1784年)に「修猷館(しゅうゆうかん)」と「甘棠館(かんとうかん)」という2つの藩校が開校しました。修猷館では朱子学、甘棠館では古文辞学による教育が行われ、藩政を担う人材を多く輩出。しかし、寛政10年(1798年)に甘棠館が焼失し廃校となったため、藩校は修猷館のみになりました。今も県立修猷館高等学校として存続しています。

【小倉藩】
小倉藩の藩校は、天明8年(1788年)に建てられた「思永館(しえいかん)」です。授業の内容は儒学を中心に、和漢の歴史、法律、政治に加えて、武術にも力を入れた文武両道でした。幕末維新期には、人材育成による藩の再建を目指して藩庁とともに豊津に移り、新たに「育徳館(いくとくかん)」として開校。今も県立育徳館高等学校として存続しています。

【久留米藩】
久留米藩では、江戸時代中期から後期にかけて、さまざまな分野の学者を招いて学問に力を入れました。天明3年(1783年)に8代藩主・有馬頼貴(よりたか)の命で学問所が設置されると、寛政8年(1796年)には藩校「明善堂(めいぜんどう)」を創設。藩士の子弟に学問と武道も教え、文武両道の「尚武の精神」を植え付けました。今も県立明善高等学校として存続しています。

【柳川藩】
文政7年(1824年)に9代藩主・立花鑑賢(あきかた)によって創設された「伝習館(でんしゅうかん)」が柳川藩の藩校です。儒学を基本に、学ぶ者の心構えはもとより、教える者の心構えについても求め、人としていかに生きるかの修養を学問の本質としてきました。幕末維新期に一旦は廃校となりましたが、幾多の変遷を経て、今も県立伝習館高等学校として存続しています。

Column

シーボルトに標本をプレゼントした学者大名-1

黒田斉清像(福岡市博物館蔵)

シーボルトに標本をプレゼントした学者大名

福岡藩の10代藩主・黒田斉清(なりきよ)は学問を好み、蘭学、本草学、博物学に精通した学者大名でした。幼少期から植物や鳥類を愛し、生態などを調べて日々研究に勤しんでいたことが知られています。
長崎を視察した際にはオランダ商館を訪問し、医師のシーボルトと会って動植物に関する持論を展開。斉清の向学心の高さには、シーボルトも大変驚いたそうです。さらに、斉清は参勤交代で江戸へ向かう途上、収集した押し葉の標本をシーボルトにプレゼントしたとの逸話も。その標本は、現在もオランダの国立民族学博物館に所蔵されています。


藩の経済を潤した特産品は?

福岡県では古くから米や麦を中心とした農業生産が盛んでした。江戸時代になると農業に加え、藩ごとに特産品の生産が奨励され、藩の経済を支えていました。

【福岡藩】
福岡藩は九州一の商業都市・博多の近くに福岡城を築き、町人の経済力などを藩の発展に活かしていました。藩の特産品として有名な博多織の起源は古く、鎌倉時代に博多の商人・満田弥三右衛門(みつたやざえもん)が、中国・宋から織物技術を持ち帰ったことに始まります。16世紀には改良が加えられ、江戸時代に幕府への献上品となったことで、広く知られるようになりました。

【小倉藩】
小倉藩の特産品として知られる小倉織は、独特の縞模様が特徴的な木綿織物です。経糸の密度が緯糸の約2倍あり、厚くて丈夫なため武士の袴や帯に使用され、その強さは「槍をも通さぬ小倉織」と言われたほど。徳川家康も鷹狩の際の羽織として愛用したとの記録が残されています。小倉城下では武家の女性が内職として織物づくりに勤しみ、地域の暮らしに深く根付いていきました。

【久留米藩】
久留米藩では、幕末期に殖産興業を掲げ、久留米絣や足袋、蝋、紙、茶、菜種油など30品目以上の地場産品の生産を奨励。積極的に領外へ輸出していました。久留米の商人は、近江商人を手本に流通や品質面を改善。特に久留米絣については、近江式板締め器械技術を取り入れ、原料の仕入れや物流の工夫などを積極的に行い、藩の産業発展に貢献しました。

【柳川藩】
柳川名物として知られるは、江戸時代から収穫や流通に携わる者に税を収めさせ、藩が特産品として振興を図っていました。幕末には藩の財政再建を託された若き家老・立花壱岐(いき)が、藩札を御用商人に与えて領内の物産品を買い付け、それを転売して藩に利益をもたらしました。明治以降に最盛期を迎えた三池炭鉱は、柳川藩家老・小野春信が平野山の土地を拝領し、炭鉱を経営したのが始まり。以降、南の三池藩とともに採炭が続けられました。

Column

「ぬか炊き」はお殿様の好物だった!?-1

総菜店の店頭に並ぶぬか炊き

「ぬか炊き」はお殿様の好物だった!?

北九州のご当地グルメとして知られる「ぬか炊き」は、サバやイワシなどの青魚をぬか床(ぬか味噌)で炊き込んだ郷土料理。初代小倉藩主・細川忠興が息子の忠利に宛てた書状の中に、忠利から送られたぬか味噌に満足したと記されており、この時期にぬか漬け文化が始まったといわれています。さらに、細川家に代わって小倉藩に入った小笠原忠真もぬか漬けを好んだそう。小笠原家ではぬか漬けの桶を床の間に置いていたことから、北九州ではぬか漬けを「床漬け」と呼ぶようになりました。
ちなみに、お隣の福岡藩では、飢饉の際の財政建て直しのため、鶏卵の生産が奨励されました。卵を産まなくなった親鳥は食用にされ、福岡藩では鶏食文化が盛んになったと伝わっています。


藩政時代から続く、4つの大藩を代表する夏祭り

江戸時代には、五穀豊穣や無病息災を祈願する祭りが各地で行われていました。人々に非日常的な楽しみを与えるだけでなく、祭りには地域の結束を深めたり、支配者の威信を高める狙いもあったのだそう。現在もこうした藩政時代の伝統を受け継ぎながら、夏の風物詩として親しまれています。

【福岡藩】博多祇園山笠
鎌倉時代に博多で疫病が流行した際、承天寺(じょうてんじ)の僧侶・聖一国師(しょういちこくし)が施餓鬼棚(せがきだな)に乗って、疫病退散のための祈祷水を撒きながら町中を回って清めたことが始まりとされています。かつては飾り立てた高さ12mほどの山笠をゆっくり曳いて華やかさを競っていましたが、貞享4年(1687年)に異なる地域の山笠間で競争が繰り広げられて評判となり、スピードを競う「追い山笠」へと形を変えていきました。

【小倉藩】小倉祇園太鼓
小倉城を築城した細川忠興が、城下の繁栄と無病息災を祈念して元和3年(1617年)に祇園社(現在の八坂神社)を建て、京都の祇園祭を取り入れて小倉祇園太鼓が誕生。当初は鉦(かね)・鼓・笛を鳴らし、山車や傘鉾、踊車、人形飾り山などの出し物が披露されていましたが、万治3年(1660年)頃から出し物とともに、六尺棒にくくった太鼓を歩きながら叩くスタイルに。明治以降は、全国でも珍しい「両面太鼓」を主体とする祇園へと発展しました。

【久留米藩】筑後川花火大会
2代藩主・有馬忠頼(ただより)が、慶安3年(1650年)に安徳天皇を祀る水天宮社に社殿を寄贈し、祝賀の花火を奉納した「水天宮奉納花火」が起源とされています。現在は、戦後、空襲からの復興を願って開催されていた「久留米まつり」をルーツとする「水の祭典」の最終日に行われ、15,000発の花火が夏の夜空を彩ります。

【柳川藩】中島祇園祭
柳川藩領内に建立された八剱神社(やつるぎじんじゃ)の夏祭りが始まりで、御祭神であるスサノオノミコトに無病息災、豊作豊漁を祈願します。ヤマタノオロチの退治伝説にちなんで大蛇を模した「大蛇山」のほか、三味線の音色に合わせて踊り子が舞う「踊り山」、参勤交代の様子を描いた「殿様行列」、2連の山車にからくり仕掛けの獅子舞を載せた「獅子山」など、多彩な山車が登場します。


4つの大藩の文化がミックスされ、現代の福岡県のイメージを形成

江戸時代にあった4つの大藩では、それぞれのリーダーが異なる治世観をもって、政治・経済・教育・文化を育み、独自の気風やお国柄が生まれました。現在の「明るく陽気で、情に厚く、エネルギッシュ」という福岡県民のイメージは、各藩で培われた文化がほどよく混ざり合って形成されたといえるのではないでしょうか。福岡を旅する際には、ぜひ「藩ごとのお国柄」という点にも注目し、奥深い歴史と文化を楽しんでみてください。

※当ページは一定の調査を元に制作をしておりますが、歴史認識には多様な考え方があるため、異なる認識をお持ちの場合にはご了承ください。

※当ページの歴史事象の確認については、福岡市博物館、TEAM城下町小倉共同事業体、久留米市、柳川古文書館の皆様にご協力をいただいております。


SHARE

次に読みたい特集記事

当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析、広告配信のためにCookieを使用しています。サイトを閲覧いただく際には、Cookieの使用に同意いただく必要があります。詳細はクッキーポリシーをご確認ください。
ページトップへ